独学について

f:id:anzudou:20210313095944j:plain[学問をするにはかがやくような心構えがいる。]とは作家司馬遼太郎氏の言葉である。
その意味では[受験用の勉強は学問ではなく、偏執的な努力を要するもの]と指摘。
確かにその通りだと思います。国語、算数、理科、社会、美術、音楽・・と幅広く教科を学んでいるようでその内容は抽象的な世界です。高学歴社会だけど、かなりの長い時間をかけて抽象的な世界の学びのみを続けることが教育とよべるのか?とも感じてきます。
しかし、人生において必要な学びを独学でカバーすることにも限界があります。やはり物事は体系的に提示されることでその知識や学びを活かせると思うからです。
先日NHK の番組で大阪府立西成高校の[反貧困教育]についての取り組みを紹介していて、偶然視聴しました。現在の日本の18歳未満の家庭における相対的貧困率から派生する様々な問題を先生と生徒が共に学び、それを具体的に活かす取り組みで、大変感銘を受けました。
個人的にもそういった分野について情報収集をしてきたので、具体的な取り組みは大変参考になりました。もうすぐ生まれて半世紀になる今までにもっと学校で学ぶ時間をつくってほしいことは次の通りです。

*労働法などのワークルールについて
*税金や保険のしくみ
ワークシェアリングやベーシックインカ ムの考え方
*世界の結婚制度・・事実婚夫婦別姓の考え方
*女性の生理、妊娠、出産
*育児について・・男性の育児休業取得率が上がらない理由についての考察や乳幼児の発達についてなど

特に労働問題は、男女とも必ずぶつかる問題です。ひきこもりになってしまうとしてもそこが課題になってくる。
学校で時間割のなかに入らないなら、たとえば公共放送であるNHK で、国民のための親しみやすい学びの番組を放送したらどうでしょう。

*参考文献 司馬遼太郎著「風塵抄」

自己肯定感について

f:id:anzudou:20210313095831j:plain日本人は自己肯定感が低い人が多いといわれています。残念な傾向ですが、私もまさにその中の一人です。数日前に49回目の誕生日が過ぎ去りました。若いときは誕生日には恋人から祝ってもらいたいだとか、いろいろ煩悩がありましたが、さすがにふと思ったことは、ちょうど49年前に親に迷惑かけたんだなあ・・ということです。大寒の頃でとても寒いだけでなく、夜の11時頃誕生したとかで、無意識のうちに迷惑な生まれ方だと感じて久しく生きてきました。
ところがブログを書き始めたために思いを明確に文章化するくせがついたからでしょうか。今回はふと気がついたのです。母は私を産み落としたあとは、普通に寝る時間にゆっくり睡眠をとれたんではないかと。ならばまあいいとするか、と小さく思いました。
私の出産は初夏の過ごしやすい時でしたが、夜の9時頃に陣痛がはじまり、一睡もできずに翌日の正午過ぎに産み落としたので、それはそれで大変というか、迷惑という感想はないですけど。産まれ方がその後の人生を決めてしまうことはないです。

コロナで数えきれない予定変更が、特に若者たちに試練を与えています。頑張ってきた成果を発表する機会を奪われたり、様々な活動の抑制にどう対処したものか模索の日々が続いています。
小さな成功体験を重ねたり、何かの結果を出すことで自信をつけていくことは素晴らしいことですが、本来の自己肯定はもっとそういうことの前にあるような気がします。今はなにも出来なくても、なんの理由もなくても、自分を大切にしてほしい。
私は久しく漠然と自己肯定感の低いまま生きてきましたが、その状態はよい結果を生みません。自分を否定しないことはもちろん、どうか他人を否定しない大人になってほしい。
社会には他人を否定する人が沢山います。そのようなときは一切耳をかさず、あくまで自分を大切にしてください。

只野真葛と滝沢馬琴

f:id:anzudou:20210313095648j:plain滝沢馬琴といえば聞いたことくらいはある有名人です。なぜなら教科書に太字で掲載されていて、日本の文学史上、歴史上重要な人物と認識されているからでしょう。私個人がぜひとも教科書に太字で掲載してほしい人物が、滝沢馬琴と同じ江戸後期を生きた女性思想家只野真葛です。
只野真葛は滝沢馬琴より4歳年上、63年の生涯で社会や政治に関する思想書を執筆した人物です。その思想は「独考」(ひとりかんがえ)上中下3巻に著されたのですが、原本は関東大震災で消失したそうです。しかし研究者の方々により伝記や抄録などの資料から内容が伝えられています。
その内容はざっくり言うと、儒教的倫理によって正当化された家族制度や社会制度を批判し、蘭学国学に影響されたとみられる経世済民論です。
江戸時代といえば女性は学問から遠ざけられ抑圧されていたイメージがありますが、こうして果敢に考えを著した女性がいたことは驚くべきことです。なぜそれが可能だったかは

*学問に親しむ家庭環境で育ち、また全国各地から来訪者がたえない家であった
*二度結婚するも自身は出産することはなく、二度目の夫が学問に理解があった

以上の二点が大きく影響したのではないかと思いました。これはとても読みやすい小説「葛の葉抄」永井路子著と近世女性史研究書「江戸後期の女性たち」関民子著を読めば納得していただけるのではないかと思います。
「独考」は1819年に江戸在住の妹を通して滝沢馬琴に届けられ、論評と出版の便宜をお願いしたそうです。それを機に一年ほどのやりとりがあったのですが、最終的には真葛の考えは馬琴によって猛烈に反論され絶交状を渡されてしまったとのことです。こうして当然当時の世の中に考えが知れわたることはなかったことは残念なことですが、1819年といえば馬琴が「南総里見八犬伝」を執筆しはじめてから3年がすぎた頃なので、タイミングも悪かったのでしょうかね。
私はフェミニストではありませんが、長い間学校で行われている教育には改良点が多々あると考えています。只野真葛のような人物にもスポットライトをあてることは現在を捉え直すヒントになると思います。
安部元総理大臣が掲げた女性が輝く社会を実現するためにも、またそれが男性の犠牲の上に成り立つものともならない社会であるためにも多様な視点が求められています。

南総里見八犬伝について

f:id:anzudou:20210313095308j:plain日本の近世女性史研究家関民子著「江戸後期の女性たち」を読んでいたら、南総里見八犬伝についての女性史的視点の解説がありました。この本は興味深い内容が盛り沢山なのですが、古語文が原文のまま紹介されていてそこの現代文訳がないので熟読できないのが残念でした。それはともかく、南総里見八犬伝といえば真っ先に思い出すのは、当時大ファンだった真田広之と若かりし薬師丸ひろ子主演の映画です。ラブロマンス調の娯楽作品で映画館まで見に行き胸を熱くした時が甦りました。あえてネット検索せずに記憶のなかにあるのは洋楽のテーマソングとこわーい船虫の顔です。曲名や歌手名はわからないけど、メロディーはくっきりと覚えています。

さて、話を戻して解説によると、南総里見八犬伝は1841年に滝沢馬琴が28年かけて書き上げた小説です。滝沢馬琴といえば教科書に太字で掲載されている人物ですよね。映画を見た当時はなにも予備知識はなく、今でもよく覚えていているのは、ビー玉みたいな目玉のこわーい船虫という名の老婆の顔です。
解説によると、この物語には二人の悪女が登場し、そのうちの一人が船虫でその悪女っぷりたるや、4度夫を変えながら盗み殺人等の悪業を尽くし、何度か捕らえられながらもそのたびに逃げ出すというものです。解説によるとその悪業は、当時の幕藩体制社会に流布されていた儒教倫理を逆用したものだという。つまり、女を抑圧する家父長制社会への無意識的な復讐と告発となっている、というのです。作者は男性の滝沢馬琴なので、小説のなかでどのように意図して書かれたのかは研究者におまかせするとしても、江戸後期の世が大地からの不穏なゆらぎに動揺しはじめていたことが感じられる。
個人的には、江戸時代から明治時代にかけて構築された社会の負の側面が現在にも見えにくい形で存在している、と考えています。
そんなことを日々気付いていけるよう独学は続けていこうと思います。

小説「銀の匙」に登場する女性たち

f:id:anzudou:20210313094748j:plain中勘助著「銀の匙」を読んだことはありますか?今から約130年前、まだ東京都心部に自然が豊かに残っていた頃の作者の自伝的小説といわれています。今回はそこに登場する女性たちの有り様を少し覗いてみたいと思います。
作品中に登場する主な女性は

伯母さん
母親
姉と妹たち
花売りのばあや

伯母さんは主人公が生まれたときには、コレラで夫を亡くし自身の子はないまま寡婦となって、主人公の家で同居していました。
この頃と現代に通じるのは、男女とも7,8歳になる歳に小学校へ通うようになっていること。成人して子どもを産むか産まないかはそれぞれの歩む人生によってそれぞれであること。
現代と決定的に違うのは伯母さんの世代は小学校へ通う人が少なかっただろうことです。近代的な学校制度のはじまりは1872年の学制が設かれて以降なので、この年には伯母さんはすでに成人していたと思われます。よって四角い字(漢字)が読めない。でもひょうきんな伯母さんは、百人一首を全て覚えていて、驚くほど博聞強記で話の種を無尽蔵にもっていたそうです。私など百人一首は数えるほどのおはこを覚えていているにすぎません。起承転結を暗記していて面白く語れる話などありません。短い絵本を読み聞かせるにしても、字づらを目で追ってしまいます。この伯母さんが実は特別に才能があったのか?それとも小学校へ通って読み書きを習わなかったゆえに習得した能力なのか。どちらでしょう。この点は大変興味深いのですが、高校全入時代の日本では比較は難しいですね。現在でも小学校入学前の年頃の子どもは見たものをそのまま覚える能力が大人より長けていることはよく観察されますね。
現在の日本のすごいところは、医療の進歩、充実と国民皆年金制度だと思います。伯母さんのころはどちらも今よりはるかに整っていないかわりに相互扶助のしくみが機能していて、晩年は知人の空き家に一人住み込み死を迎えます。主人公が16歳のときにすっかり視力の衰えた伯母さんとの再会は大変胸をうちます。阿弥陀様を敬虔に信心していた伯母さんは、きっと死を過渡に恐れずに静かに息をひきとったことでしょう。
現在の日本では女性をとりまく環境が大変変化が激しいです。伯母さんの頃とくらべると格段に人生の選択肢は広がりました。でも注意深くしていないとその自由が奪われる危うさは続いていると思います。星の数ほどの名もなき女性たちがどのように生きてきたか。もっと知る機会が必要です。そしてこれからを生きる若い女性たちは、それぞれの最善の生き方を見つけていってほしいと思います。

子育てはいつまで?

f:id:anzudou:20210313094340j:plain子育てはいつまでやればいいか考えたことはありますか?もちろん人それぞれで、終わりはないという意見もあるでしょう。
私の場合は子どもに関する知識ゼロでの予期せぬ妊娠のうえに、周囲に良きアドバイスをくれる経験者もいなかったので(お腹の子が18歳になるまではとにかく守り育てよう)と覚悟しました。さすがに18歳になれば、もし親が死んだりしたとしてもなんとか生きる術を見つけていけるだろう、とその時は思いました。あれから早いもので20年の歳月が流れ、お役御免といえますかね。
妊娠中の母親教室に参加したときは、講師の方が「つ」のつく年齢まではとにかく世話がやけますが、そのあたりまでは頑張ってくださいという話をしてくださりなるほどと思いました。9歳ということですよね。
ここでいう子育ては、衣食住の基本的な部分で、予防接種を受けさせたり、不慮の事故から守ったりと最低限親ができることですけど。教育となると親にできることはわずかだったりします。有名なモンテッソーリは人間が完成するまでを24歳までを目安としたそうです。またまた有名な教育家コメニウスは、人生を誕生から死までの8段階にわけてあらゆる人間(若者も老人も、富者も貧者も、男も女も)が教育された状態になるべきと考えたそうです。まさにその通りですよ。もうすぐ生まれて半世紀になるのに日々知らないことだらけ、わからないことだらけです。
情報は洪水のように溢れている現在ですが、少し前に身の回りにあった生活の知恵や人生指南に触れる機会が少ないことが懸念されます。しかしあきらめることなく明日のために知識を磨いていきたいです。

親子について

f:id:anzudou:20210313093844j:plain長い間立春は2月4日と決まっていると思っていましたが、今年は3日が立春で豆まきは2日になるそうです。
さて、今回は「親子について」です。親が人格者で、大人になるまで目標となる背中を見せて導いてくれたら・・・どんなに素晴らしいか。ところがほとんどそうはいきません。しかし悲観することはないようです。なぜなら世界の名だたる偉人たちが次のような言葉を残しています。たとえば五木寛之著「人間の覚悟」のなかには[キリストにも親鸞にも通じるのは、父母や兄弟などの肉親の関わりに過大な価値をみいださなかったことです・・]また、教育関係の勉強をした人なら必ず知っているコメニウスも次のように言ったそうです。「子どもにとって両親の死が悪い結果になるより、良い結果になることがある。」
毒親なんて言葉もあります。しかし多くの人にとって容易に断ちきれない縁だからこそ苦しく、それは人間の有り様そのものといえますが・・・。
最近読んだ本、小川糸著「針と糸」のなかで母と娘のこじれた関係が克明に綴られていて、深く考えさせられました。作者は母親の死後に関係が丸くなったそうです。
モンテッソーリメソッドで有名なモンテッソーリは30年の研究の結果わかったこととして「一般に子どもは無理解な両親や社会に強いられて正常な発達からそらされる者だということ」と記した。またモンテッソーリが生まれる少し前の江戸時代の日本の様子を記した書物のなかには、庶民家庭の有り様について「庶民家庭の多くが、礼儀や人倫を教えない捨て育ての状態であり、その結果子どもは気随、気儘となりやがて放蕩に流れて身も修まらず、親不孝、夫婦不和、兄弟不和、家職怠慢、一家衰運の道を歩む者多し」とあります。

子どもに必要なのは血のつながった両親よりも良質な教育環境である。と言えそうです。
そして現在の日本に最も欠けているのは、暮らしのなかでゆったりと自然の営みに触れることができ、倫理観を育むことができる環境ではないでしょうか。

倫理観を育む環境・・・。どうしたら実現できるのでしょうね。

*参考資料
相馬伸一著「ヨハネス・コメニウス汎知学の光」
小泉吉永著「江戸の子育て読本」